樫本祐輝 / カッシー

はじめまして!カッシー(@strive)です。

1985年生まれ 岡山出身 大阪在住
「クリエイティブな人に幸せを」を理念にフリーランス・クリエイターの駆け込み寺として活動。
主にクリエイター支援、IT・クリエイティブコンサルティングなど提供して活動しています。

このページではより僕のこと知っていただくために経歴・経験をまとめたものになります。

経歴

中学時代

自分に強みが無いことがコンプレックス。
得意な教科が無く、将来の方向性に悩む日々でした。

行きたい高校を選ばないといけなくなり、KONAMIの音ゲー「ダンスダンスレボリューション」にハマりゲームを作りたいとクリエイターを志す。

当時パソコンが普及しだした頃で、強みが無かった僕も、今からパソコンを学べば先駆者になれるかも?と興味を持ちました。父親が50万円で購入したけど埃被っていたパソコンが使えるようになったら・・・と夢を持ちました。

高校時代

情報処理科がある商業高校に進み、ソフトテニス部と軽音部を兼部。
フリーソフトで友達のバンドのロゴやチケットをデザインなどチャレンジし、創る楽しさを学びました。

しかし、ゲームプログラマーを目指すも当時は知識も環境も無いため挫折。
誕生日に買ってもらったペンタブをキッカケに絵を描き始め、好きなゲームのファンサイトを立ち上げたいとWebサイトの作り方を学ぶ。

絵を描くことやゲームが好きで、対人コミュニケーションは苦手だったので、将来パソコンに向かって在宅で仕事をすることを目指したい、と自己分析をして理想を持つようになりました。

当時放映されていた「.hack」のWebサイトがFlashという技術で作られており、「こんなの作りたい!でも独学でFlashは無理だ・・・」と専門学校に行くことを決意しました。

また資格取得にハマり簿記や情報系の資格取得も頑張りました。
国家資格の初級システムアドミニストレータも取得(現在は終了、今のITパスポートみたいなもの)

専門学校時代

Webサイトをより本格に作れるようになりたい、と大阪の2年生の専門学校に進学。
一年目は初めての都会で一人暮らしに浮つきアルバイトに明け暮れる。夏休みには初めて東京に行ってコミケにも参加できました。

そして19歳の秋、初めての彼女ができました。※現在の妻です

そんな日々の中でとある岡山のフリーランスデザイナーだった「西田幸司」氏が有名な賞を受賞したことを知る。地方のクリエイターにもチャンスはあるんだと奮い立ちました。

その方が横浜のとあるWeb業界のイベント登壇するということで参加したところ、朝から夜まで話を聞いて「ヤバい、業界の知識についていけない」と自分の立ち位置を知り、改めて本当にプロのクリエイターを目指そうと本腰を入れて勉強を始める。

在宅で仕事をしたいと考えていたので、専門学校のOB繋がりでかなり格安(Webページ1P2,000円とか)でこなし、個人で仕事をする感覚を身につける。この小さなスタートが今の人生にも繋がっています。

社会人一年目:Web制作会社

いくつかのインターンやアルバイトを経験し内定をもらい、アニメーションに強いWeb制作会社に就職。

アニメーションに強い上司だったんですが、仕事のメインは不動産系のWebサイトをガンガン制作することでした。作業スピードの基礎はこの時に学びました。

副業もずっと続け、毎日帰宅後も深夜まで作業し続けました。
当時自作PCも趣味だったので会社よりもかなり作業が捗るPCを組み立てて、早く家に帰りたい気持ちで毎日過ごしていました。
半年ぐらいすると毎月安定して5万円ぐらい稼げるようになりました。

プロになった喜びもつかの間、会社の中でスキルアップしても自分のやりたいことが出来ないと分かり、もっと自分がやりたいリッチでインタラクティブなコンテンツを作りたいと会社を1年でやめることを決意。

人生の転機として、この時「月最低15万ぐらい稼げたらフリーランスでやっていけるかも?」と思い、独立するのを決意。ダメだったら就職しようという精神で夢だった在宅ワークをやってみることにしました。

21歳でフリーランスとして独立

同級生がまだ大学4年生になる頃、僕はフリーランスのWebデザイナーとして独立しました。
思ったより人生の早い段階で、あっけなく夢が一つ叶ってしまった瞬間でした。

当時はHTML/CSSとFlashのアニメーション作成がメインでした。
いくつかのWebサイトを作ったりしながら、収入はあったりなかったりと荒波の中で生活をしていきました。

そして転機になったのが、とあるゲーム系の仕事の相談が来たことです。

当時僕がアニメーションを作っていたソフト「Flash」の技術で携帯電話用ゲームが作られていました。

通常のプログラミングと違い、アニメーションを生かした作り方が求められていたため、通常のゲーム会社が開発できないということで僕のところに依頼が来たのです。

正直凄まじく安い仕事ではありましたが、ゲームセンターで見たことがあるゲームを携帯電話用に移植することになります。

念願だった「ゲーム」の仕事。年末年始休み返上で足りないスキルを努力でやり遂げました。自分の専門学校のゲーム系の先輩に見せたら「お前すげーな」って言われたことがとても嬉しかったです。

周りのご縁あって「ゲームプログラマーになる」という昔一度諦めた夢が、唐突に叶った瞬間でもありました。

人生最大の失敗と結婚の決意

フリーランスを3年ほど続けたところで、先輩フリーランスと一緒にシェアオフィスを借り、よりゲーム系の仕事が増えたりと充実した日々を送っていました。

調子に乗っていたのでしょう。とある案件で大きなミスをしてしまい、裁判になるかならないかというレベルまで問題が発展しました。

この時ほど自分の無知(マネージメントやディレクション、契約など)を恨んだことはありません。
2ヶ月ぐらいかけた仕事は飛び、当然報酬は貰えず、裁判になるかどうかの対応に追われ気がつけば4ヶ月も無収入に。

当然貯金も尽きて実家に戻る目前でしたが、当時付き合っていた現在の妻が僕を信じてお金を貸してくれたりと支えてくれて乗り切ることが出来ました。

しばらくして仕事の波を戻ってきた頃、彼女が付き合っていた当初から「27歳で1人目、30歳までに2人目の子供が欲しい」というていた夢を叶えたい、僕を支えてくれた彼女を一生手放したくないと指輪を買ってプロポーズしました。この時の妻の支えがなければ今の僕は無かったでしょう。

初めての子供とゲームベンチャー時代

結婚してすぐに妻が身ごもり、24歳でパパになりました。大きなライフステージの変化を迎えました。
あまりにもすぐに子供ができてびっくり!妻のつわりがひどく新婚旅行直前で泣く泣くキャンセルしたのもいい思い出です。

子持ちになりフリーランス歴も3年経とうとしていた頃、子供ができたことで自分の人生を見つめ直しました。ゲーム系の仕事を進めていく中で時代はソーシャルゲームバブル、僕のやっていた仕事が業界的に花形となり、有名企業では入社するだけで100万円支給などがニュースになる時代でした。

そんな中とあるゲーム系ベンチャーに誘われ、フリーランスの売上以上の待遇を用意してもらえジョインを決意。とある有名なタイトルを手掛けたゲームクリエイターの元で、24歳で月37万円と同年代から比べると高待遇な立場でフロントチームのリーダーを任されることになりました。

Webのチームのリーダーとして作るだけではなく、初めての採用・中間管理職として取り組みを始めました。またクリエイティブのリーダーがリモートだったこともあり、実質現場のイラスト・デザインチームも自分の管理下として業務に従事していました。

名も無いベンチャーで24歳の僕のもとに集まった方は、若くて将来性ある子やプレイヤーであり続けたい30代後半のゲームプログラマーの方々でした。干支一周以上の年上をまとめる立場にあったのでヒヤヒヤしながら仕事をしてました。

しかしベンチャーとは儚いものでして、入社して半年ほどで実質経営者と雇われ社長間でトラブル。理由あって二人とも現場に来れなくなり、実質倒産という状況になり、20名を超える人数で労基に駆け込みました(涙)

この時、せっかく頑張って作ったサービス、集めた人材も売上がないと無意味だなと感じました。

この頃、iPhoneが普及し始め、僕がメインで仕事をしていたFlashという技術は一気に淘汰されていきました。もともとその仕事をしていた方々はアプリの開発など様々な分野に散っていきました。

経歴リセットし、マーケティング会社へ

倒産と自分の業界の衰退。なかなか無いことを経験した僕はより未来に繋がる技術を身につけないといけないと考えました。いうても子供も妻も養っていかないといけない。

ゲームのベンチャー時代、僕は外部のマーケティングパートナーの仕事にとても関心がありました。自社のコンテンツがこのようにPRに繋がるのかと・・・

これまで普段Webサイトなど作ってきましたが、自分の作ったWebサイトやデザインがどのようにユーザーの目に触れていくのか、あまり知識を持っていませんでした。

今でこそペラペラ喋れるようになった僕ですが、当時はまだ寡黙な一匹狼風クリエイターでした。良い物作れば結果は伴うと考えるTheクリエイターってタイプだったのですが、このマーケティング会社とのやり取りで「売れて欲しいと考え続けることで、良いものを作ればという結果を上回る場合もある」という体験したのは今でも大切にしている経験です。

話はそれましたが会社が倒産後、フリーランスに戻るか、その他にも過去の取引先からのお誘いなどもあったのですが、運良くご縁があり大阪に支社を立ち上げるマーケティング会社にWebデザイナーとして入社することになりました。

改めて自分のキャリアをリセットし、年齢相応の立場から再スタートしました。

ゼロスタートとしてやり直す気持ちだったので、改めてマーケティング業界を学ぼうと、気になったバナーやランディングページなどを印刷したりトレースしたりと日々セールス系のデザインを作り続けました。なんとしても売れる能力を手に入れたいとこの時は必死でもがきました。

幸い会社は多数のコンサルティングやマーケティング事業に関わっており、学ぶことは多数ありました。学んだことを実践したいとブログを始めたのが「カッシーのWebる」です。それまでも技術的な記事は書いてたのですが、SEOの勉強やライティングを勉強するために日々アウトプットしていきました。

初めてのブログがバズった

マーケティングの実践をしていく中で、どんな記事が良いか?と様々なチャレンジをしていた中で、フリーランスやWeb系のノウハウが評価が良いことが分かりました。

そんな中書いた「コレは行ける!」と思ったフリーランス準備編の記事が初めてネットで大バズ!はてなブックマークというソーシャルブックマーキングサイトで1位になり、数日間で1万人を超えるアクセスがありました。

これが今のフリーランス支援にも繋がるのですが、この日を境にフリーランスの相談をTwitterで貰うようになりました。

ブログをやっていておかげで色々な人と繋がりができ、本の執筆の依頼をもらったりと、ブログの可能性をすごく感じました。

そんな中、東京に行きたいと思っていたこともあり、大阪でやり残したことはなんだろうか?と考えました。

お金の稼ぎ方は分かってきた。でも僕がやりたいのはそういうものじゃなく、社会に必要とされる、愛されるサービスだなと思いました。そこでフリーランス時代に付き合いのあったNPO法人HELLOlife(旧スマイルスタイル)さんともっと仕事したかったと思い、退職し改めてフリーランスに戻ることにしました。

人に愛される仕事をしたいとNPO法人へ

一緒に仕事したいので「良かったら週一で事務所間借りとか出来ませんか?」と相談してみたらまさかの「一緒に働かない?」と誘われました。

当時HELLOlifeさんは素敵なコンセプトの事業を立ち上げるのが上手いベンチャー的なNPO法人。全体の一割ほどしか居ないと言われる寄付金に頼らず活動している事業型NPOだったんです。ニートの就労支援事業に関わっており、Web制作のサポートと合わせて就労支援のスタッフとしてもお手伝いさせていただきました。

これまでWebサイトなど作ることはしてきましたが、元々コミュ障オタクな僕からすると、対人サポートはとても緊張したことを覚えています。

僕にはパソコンと出会えたから今の道がありましたが、そうじゃなければ飽き性で得意な勉強がなかった僕は一歩間違えたらそっち側だったかもしれない。なんとかして人生には色々な道があること、まだまだゼロスタートできる可能性があることを伝えたい、と苦手なりに頑張りました。

このNPO法人でファシリテーションやワークショップ、イベント運営経験を積めたことは今のクリエイター祭りなどに繋がっています。

学んだことを実践しようと自分でセミナーを企画することにしました。それが「フリーランスセミナー」という僕のクリエイター支援の最初の一歩です。

僕には21歳のときに「フリーランス」という選択肢がありました。でも、まだまだクリエイティブ業界はブラックな働き方も多く、過去に見てきた人は「クリエイターをやめざるを得ない」という人を立て続けに見てきたので、なにか伝えたいものがありました。

セミナーで貰った参加費1000円x10人の1万円の売上は、会社を通さず自分が直接価値を与えて初めて稼いだお金だったので、とても重みが違うなと感慨深い思いになりました。

フリーランス・クリエイター支援の始まり

気がつけば27歳。再びフリーランスに戻りました。

前回のような普通のフリーランスのクリエイターではなく、もっと将来性ある未来に繋がる仕事をしていこうと仕事の軸を次のようにしました。

・税理士のような、IT・クリエイティブ顧問
・クリエイター向けの有料サービスを作る
・WordPressを使ったSEOxクリエイティブな仕事

嬉しいことにフリーランスセミナーは好調で、周りの声もあって東京でも開催。気がつけば「フリーランスセミナー大阪/東京」検索一位になり、ずっと申し込みがあるセミナーとなりました。おかげさまでファシリテーション力をすごく鍛えることが出来ました。

Web系の仕事はまぁ順調に普通のフリーランス的な仕事をしていたのですが、クリエイター支援のほうが迷走していました。セミナーだけでは足りない、ワークショップも1回2回では意味がない。本当に人を育てるには環境が必要だと感じ、クリエイターの有料コミュニティを作ってみようと考えました。

人生の転機「クリエイターギルドTHE CREATIVE」の立ち上げ

僕の人生の軸となるクリエイターギルド。人生の転機といっても過言ではないでしょう。

有料会員制サービスとして2013年9月から始め、月1万円の年契約と少しハードル高いサービスでしたがフリーランスのセミナーをしていたこともあり、ぽつぽつ人が増えていきました。手探りで営業・クロージングの経験を積んでいきました。お陰で喋る力がしっかり身につきました。

コンセプトは「未来を創る力を」にしました。
フリーランスやビジネスの知識はあくまでその能力の一つ。僕が困った時に次に進む選択肢があったように、自分の未来に近づいていけるフリーランスやクリエイターを増やしたいと考えました。

当時STRAMD OSAKAという阪神主催の有名な企業CI/VIの方が教えるスクールにも足を運び、ブランディングとはなんたるか、未来を創るとは何たるかを学び、教えていきました。

ある意味企業経営や起業家のノウハウを、クリエイターに転用していくような感覚でやり始めました。

個人に300人規模の会場は貸せません。ならば法人化だ!

THE CREATIVEのアウトプットの一環で始めた「クリエイター祭り」が規模が徐々に大きくなってきました。

2015年は70人ほど
2016年は130人ほど
2017年は220人とどんどん参加者が増え、いよいよ次借りる会場は300人が定員の会場でした。

紹介制でやっていたTHE CREATIVEも気がつけば40人を超え、東京にもメンバーが増え、規模感も大きくなってきました。

「そろそろみんなが集まる居場所がほしいな・・・」
「クリエイター祭りの会場、規模が大きくなりすぎ・・・」
「節税も考えなきゃな・・・」

様々な理由から法人があったほうがいいなと感じ、2017年11月に「株式会社クリエイティブユニバース」という会社を立ち上げました。事業内容は悩んだのですが、クリエイター支援を軸とした会社にしました。

3つ柱「クリエイター支援」「UI/UX」「DX」

現在、僕の仕事は3つの領域に分かれます。

1つ目は、「クリエイター祭り」や「クリエイターギルドTHE CREATIVE」「フリーランス研修」などクリエイターの居場所、情報発信など。メディアやYouTubeなど様々なコンテンツを提供しています。

2つ目は、UI/UXを中心としたクリエイティブな仕事。アプリやWebサイトのデザイン・サービス設計など手掛けています。特にユニークなものを創ることを大事にしています。スタートアップのWebサービス設計や行政サービスのUI/UX、大手電機メーカーの特殊な画面設計など手掛けています。

3つ目は、IT顧問を始めとするDXコンサルティング「DXBoot」。働き方の改善や時間を創るためのIT支援です。主にサイボウズ社のkintone活用が得意です。また、関西の方にしかわかりませんが、グランフロント大阪にあるナレッジキャピタルのITアドバイザー経験や、某高層ビルの会議室の予約システムの設計など手掛けました。就労支援のNPO法人、求人広告の代理店、Vライバー事務所など様々な業種の実績があります。

これらの詳しい仕事の情熱等は、メッセージのページをご覧いただくとより理解度が深まるでしょう。

フリーランス・クリエイター生き方マニアになりたい

coming soon…

ゆくゆくは将来、行政のフリーランス支援に関わりたい

案内ページもあるのですが、ゆくゆくは10年以上フリーランス支援(人・ノウハウ・居場所)の経験を積み上げてきたノウハウを活かして、これから増えるであろう行政や自治体のフリーランス支援に関わりと考えています。

ほとんどの自治体ができることといえば、なんとなく居場所を作って外部の講師を招いたセミナーをする程度に留まるでしょう。これは居場所に関するノウハウやそこに関わる人とのリレーションシップの組み立て、そしてその相乗効果のシェアリングなど、様々なノウハウが大半の企業にはないと確信しています。

いわゆる経営コンサルや創業支援と異なる歴然とした差のノウハウがあると自負してますので、いずれはこれを形にしていきたいと思います。

知らないはリスク

僕が長年情報を発信し続けることには理由があります。

中学生の頃の話になるのですが、当時発売された遊戯王のゲームの大会で岡山で優勝しました。

続いて中国大会に進むときに、親に有給を取ってもらって広島までいきました。
正直自分の戦略にはそれなりの自信がありました、にも関わらず大敗してしまいました。

とある攻略情報が公開され、攻略誌やネットがある人はそれを実践したのですが、僕はその両方がなかったのでみんなと圧倒的に立場が悪い状態で大会に望みました。

この時の経験が今でも悔しくて悔しくて記憶に刻まれています。
仮に自分に才能があっても、どれだけ戦略を練っても、たった一つの情報の有無だけで差がついてしまった。

この体験が僕にとって
「知らないことがあると、自分の才能が生かすことができない」と学びました。

僕の話は所詮、子供のゲームの話かもしれません。
しかし、コレと同じようなことがフリーランスやクリエイターの人生でたくさん日々起こっています。

たった一度、理解すれば解決できることを知らないがために時間やお金、機会を損する。これは非常に勿体ないことです。

僕の中ではこれがすごく心に刻まれていることから、ずっと外部に向けて情報発信をし続けています。

クリエイティブな人に幸せを

僕は以上の経験から「未来をこうしたいんだ!」と頑張る人、努力する人に幸せになってほしいと考えるようになりました。

未来を望まなければ今の現状に満足するしか無い、自分にはこの道しか無いと諦めてしまうような思考では何十年と行きていくのは辛いだけです。

そうではなく、少しずつでいいから毎日を幸せと思えるような一歩を進んでもらえるような情報や選択肢、環境を提供できればと日々活動しています。

もっともっと、新しいことを生み出せる力、未来を変えたいと行動する人が幸せになれるよう引続き努力していきたいと思います。